円谷 英二(本名 英一)は1901(明治34)年7月7日、福島県須賀川市に生まれました(※)。
1916(大正5)年に尋常小学校を卒業し、憧れの飛行機乗りを目指して日本飛行学校に入学するも事故によって学校が閉鎖。夢破れて新たな進路を見出すべく、神田電機学校(現在の東京電機大学)の夜間部に入学。
学費の足しにと、玩具会社で玩具の企画立案や、実際の商品発明に携わる嘱託考案係として働くようになったのですが、この頃に、偶然に映画関係者と知り合ったことが縁となり、カメラマン助手として映画人のキャリアをスタートさせます。
この時、円谷英二は18歳でした。
円谷英二が映画界入りをした頃、日本の映画界はまさに勃興期で、英二は日々映画の撮影の仕事に追われながらも、より完成度の高い作品を目指して、様々な撮影技術、撮影機材の研究と開発、その実践、実現に情熱を傾けました。
現在の映画界では当たり前になっている多くの撮影技術や技法を、円谷英二が発想し、作り上げ、定着させたのです。
また、海外の映像作品に頻繁に触れ、その技術を丹念に研究して自分の中に取り込むと同時に、自身が創出した技術のブラッシュアップを図りました。
早くからミニチュアや別々のフィルムをひとつに重ね合わせる合成技術を駆使した映像表現に着目し、求める映像表現を達成させるために、特殊撮影技術の考案、実現にも貪欲に取り組みました。
文字通り、英二は特撮技術の偉大な発明者にして第一人者であり、「特撮の父」でもありました。
その集大成として、映画会社の東宝で仕事をしていた際に、戦前には『ハワイ・マレー沖海戦』、そして戦後には怪獣映画『ゴジラ』という空前の大ヒット作を生み出し、 日本ばかりではなく、海外にも評判が響き渡り、その名を知られることになりました。
一時は、英二が新作の特撮映画を作るという情報だけで、お話や登場人物のこともよく知らないまま、映画の興行権を買い付けに来る海外の会社もあったと言われるぐらいです。
円谷英二を語る時、「特撮の神様」という言葉によく出会います。 この言葉の意味するところは、どんなところにあるのでしょう。
英二の作る特撮はミニチュアを巧みに操る職人たちの技量の高さ、セット美術考証の徹底的な精密さなどを主体としながら、考え抜かれた特撮技術を映像にふんだんに盛り込み、空想の世界の出来事をまるで実際に体感しているかのような臨場感で描く、実にエンターテインメント性に溢れるものでした。映画を見ている人を楽しませたい、驚かせたい。
そのために特撮というテクニックを最大限に利用する。特撮で成立させた世界の細部までコントロールして観ている者を楽しませる。
それが円谷英二の本分でした。
技術とエンターテインメント性の見事な両立こそが、円谷英二を「特撮の神様」たらしめた所以と言えるのではないでしょうか。
さらに円谷英二は、映画に代わり、人々の娯楽として定着し始めていたテレビという新しいメディアに注目。
映画で培ってきた技術で、今度はテレビを観ている人たちを釘づけにしてみたいという思いを抱き、映像制作会社を創設しました。 それが「円谷特技プロダクション」、現在の「円谷プロダクション」です。
映画館のスクリーンの大きさとか迫力には敵わないけれど、テレビ番組には飽きられたらすぐにチャンネルを変えられ、 見向きもされなくなってしまうというシビアな側面があることを英二はよく知っており、テレビ向けの特撮作品を作っても、決して妥協した作りを許さず、 少しでも視聴者が興味を失ってしまうようなクオリティの低さが感じられたら、撮影や編集のやり直しなどを命じるなど、厳しい監修の目を光らせていました。
こうして作られた第1回製作作品の『ウルトラQ』が評判となり、日本中に”怪獣旋風”を巻き起こしました。
シリーズ化を狙い、怪獣と巨大ヒーローが戦うという斬新なコンセプトを持ち込んだ『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』も大ヒットを記録。
さらに怪獣を子供たちの日常に紛れ込ませたコメディ企画の『快獣ブースカ』、特撮技術を高度な人間ドラマの中への融合を試みた『怪奇大作戦』、念願であった縦横にメカニックが活躍するミニチュア特撮に意欲的に取り組んだ『マイティジャック』などの作品が円谷英二に教えを乞い、学んだ多くの熟練技術者たちによって生み出され、子供たちを夢中にさせました。
テレビでの成功を収めた後も、英二の中では依頼された映像制作、様々な映像企画のプランニングがあり、精力的に活動を続けていましたが、体調を崩して療養に入った矢先に、1970年1月に療養先の伊豆にて永眠。
享年68歳。 かねてから構想していた『ニッポンヒコーキ野郎』と『かぐや姫』の企画書を療養先でもまとめ続けるなど、最期まで特撮を愛し、特撮に夢を見続けた人生でした。
観ている人たちに喜びや驚きを与えたい。
その喜びや驚きを糧に、想像する喜び、未来に向かう希望、平和や愛を願う優しさなどを育んでもらいたい。
その英二の思い、情熱を忘れることなく、創業から50年を経た現在も円谷プロダクションは声援を寄せてくださる多くのファンの皆様の想いに応えられる作品作り、 キャラクターや映像の創造に努めています。
(※)円谷英二の誕生日については7月7日、7月5日、7月10日など複数の説が存在しますが、英二自書による履歴書などから、遺族、親族間では「7月7日を誕生日とする」という共通見解が持たれており、弊社でもこの見解を尊重し、踏襲しております。